悩んでもいいじゃん248

  • 2011.12.26 Monday
  • 18:48
創価学会の人たちの決定的な強みは、『祈ることが、できる!』ということです。

たとえば、家族にしろ身近な大切な人たちが、病気や事故にあったとする。
そういう時に、一般的には、いろいろと手はずをとり、手を尽(つ)くすことはできるけれども、その事故や病気にあった人に直接的に影響(えいきょう)させることは、できない。正直、見守るしかない・・。
容態(ようだい)や回復に影響させることができず、見守るしか方法はない・・・。

けれど、創価学会の人たちは、違(ちが)う。現実に病気や事故にあった人の容態(ようだい)と回復に、直接的に影響させることができる。

それが、創価学会の人たちの祈りなんです・・!

病気や事故にあった人とは、直接的には関係しないにしても、その人を知り、回復(かいふく)を願う創価学会の人たちの祈りによって、病気や事故の容態をより良く回復させ、治(なお)っていったことは、それこそ、山ほどあると思う。

しかも、それが大変な病気や事故だった場合、なおさら、創価学会のみんなの祈りが強くなり、現実に影響力を持ち、病気や事故にあった人を回復させていった例は、数えきれないと思う。

もちろん、徹底的な治療(ちりょう)をほどこしてもらうのは、当然(とうぜん)として、それらの治療などの環境も含(ふく)め、あらゆるものをより良くプラスにもっていく力(ちから)が、創価学会の祈りには、現実にあるんです。

創価学会の人たちの『祈り』が不可能を可能にした例も、数えきれないと思う。

それが、本物の祈りなんです。

だからといって、祈りに効果(こうか)があるのならば、葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰などで、真剣に祈ればいいじゃないかと思って、祈ってみたところで、祈りに効果がもたらされることは、ありません。

それらの祈りは、間違(まちが)った祈りであり、葬式仏教や観光宗教、神社信仰自体が、間違ったデタラメな宗教なので、どんなに真剣に祈ったとしても、なんの効果もありません。たとえ、命がけで祈ったとしても、なんの効果もなく、返って、間違った宗教なので、間違った結果として、さまざまな形で不幸が出現してしまいます。

それが、世間一般的な祈りです。

だから、そんなものは、やるべきではない・・!

けれど、さきほども言いましたが、本物の祈りは違う!

創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる祈るは、現実に、人生に、世界に、未来に、決定的な大きな影響力を与(あた)えていくんです!現実を動かすことのできる力(ちから)!・・それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえて祈るという『祈り』なんです。

これほど、スゴイことはないんです。
こけほどの武器も、なんいんです。

あらゆるものを幸せに変革(へんかく)していける!
あらゆるものを蘇生(そせい)させていける!
それは、自分でなくても、かりに他人であっても、その人のことを真心こめて祈ることによって、現実に他人のはずの生命を蘇生させ、より良く幸せにしていけるんです。

創価学会の人たちの、『南無妙法蓮華経をとなえる』という祈りほど、すごいものはないんです。

だから、結局、南無妙法蓮華経を、となえて祈りきった人が、勝利していける。
幸せになっていける!

それが、どんな状況(じょうきょう)であれ、どんな環境であれ、どんな苦難や悩みであれ、それがかりに自分でなくても、影響を及(およ)ぼし、蘇生(そせい)させ、幸せにしていける!

それが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!

悩んでもいいじゃん246

  • 2011.12.15 Thursday
  • 12:28
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
『なぜ、祈りが叶(かな)うのか』
について語っています。

『私たちは、無宗教を自称(じしょう)する人も、何かを心から願っている。何かを心の底(そこ)で祈っている。
これらを、宇宙の法則(ほうそく)のうえから、祈りと現実がきちんと合致(がっち)していくようにしたのが、仏法(ぶっぽう)の祈りです。

小さなギアでも、大きなギアと、きちっと噛(か)み合わせれば、すごい力(ちから)が発揮(はっき)できる。
同じように、「小宇宙」の自分自身が、「大宇宙」の生命と、きちっとギアを噛(か)み合わせていけば、どんな悩みも乗り越(こ)えられる無限のパワーが出るのです。』

たとえ、無宗教と自称(じしょう)しているような人であっても、何かを願っている。
それは、心の底で、何かを祈っているということです。

そこから、さまざまな行動が生まれ、さまざまな人生が形成(けいせい)されていく。

心の底にある『祈り』は、やがて、その人に、さまざまな影響を与(あた)え、さまざまな希望となって、その人の人生を彩(いろど)っていく。

だから、『祈り』というのは、人間の中に必然的(ひつぜんてき)に存在していて、必然的に、その人の中から、わき上がってくるものだと、言えると思います。

だからといって、祈りだったら、なんでも良いかというと、そういうことでもない。間違(まちが)ったものに祈るということは、自分が祈りをかなえたくて祈っているにもかかわらず、祈りがかなうどころか、逆に、間違ったものに祈っているので、その人に、さまざまな形で悪影響を与(あた)え、 間違ったものに祈ったという結果として、さまざまな形で、その人に不幸をもたらしてしまう。

だから、祈りだったら、なんでも良いということではなく、間違ったものに祈るということは、不幸をもたらす原因になってしまう。

その間違った宗教と言えるのが、日本にはびこっている葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰です。

だから、正月などに、それらの宗教に、どんなに真剣に祈ったとしても、逆に不幸になる原因をつくることになり、さまざまな形で、不幸が出現してきてしまう。

それが、世間一般的に考えられる宗教です。

池田先生が言っていますが、小さなギアでも、大きなギアと噛(か)み合うと、すごい力を発揮できる。
それと同じように、小宇宙と言える自分自身の生命と、大宇宙という大きな生命が、きちっとギアが噛み合ったとき、どんな悩みも解決していける無限のパワーがでてくる。

その時に、祈りがかなう方向に進んでいけ、やがて祈りが、かなっていく・・!

それができる真実の祈りが必要であり、その自分自身の生命のギアと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛(か)み合い、幸せの方向に、すべてを動かしていける力(ちから)ある祈りが、創価学会が実践(じっせん)している、南無妙法蓮華経をとなえる仏法(ぶっぽう)の祈りなんです。

だから、すごいんです!
だから、悩みや問題を解決していけ、だから、夢や希望をかなえていけるんです。

それが、創価学会の祈りなんです。

いわば、世間一般的な祈りは、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、決して噛(か)み合ない、空回(からまわ)りの祈りです。
だから、祈りはかなわないし、逆に間違ったものに祈っているので、不幸を引き起こす原因になってしまう。

それに対して、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえて祈る『祈り』は、自分の祈りと大宇宙の生命のギアが、がっちり噛み合い、まるでサーフィンで波にのるように、楽しく、悠々(ゆうゆう)と幸せをつかみ、勝利していける。

そういう本物の祈りが、創価学会の南無妙法蓮華経をとなえる『祈り』なんです。


最初に話したように、たとえ無宗教を自称しているような人でも、何かを心から祈っている。

本当は、何かを心の底で祈っている。

その本源的(ほんげんてき)な祈りを、現実の形にして、現実に祈りをかなえていける、また、悩みや問題を解決していける、また、夢や希望をかなえていく大きな力(ちから)となるのが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!

悩んでもいいじゃん217

  • 2011.07.10 Sunday
  • 20:23
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、言っていたそうです。

『ご本尊(ほんぞん)が、なぜ必要なのか・・?
それは、自分の中の「ご本尊」を開くためだ・・!!』

創価学会の人たちは、日々、ご本尊(ほんぞん)に向かい、南無妙法蓮華経を、となえています。

ご本尊とは、どういうものかというと、創価学会の人たちが祈る対象(たいしょう)であり、南無妙法蓮華経をとなえる対象となるのがご本尊です。ご本尊は、仏(ほとけ)の生命を、文字で表現しきった曼荼羅(まんだら)で、仏の生命そのものを、あらわしたものであるのと同時に、自分の生命そのものを、あらわしたものでもあります。

そして、本質的(ほんしつてき)には、その必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命が、自分自身の中にあることを、あらわしたものが、ご本尊(ほんぞん)です。

そのご本尊がなぜ?必要かというと、池田先生が、
『自分の中のご本尊を開くためだ!』
と言っています。

たとえば、電波(でんぱ)は、ただ、あったとしても、見えないし、わからない。また、そのままでは、何の役(やく)にも立たない。

けれど、テレビという機械を使うと電波が映像(えいぞう)になり、さまざまなメッセージとなり人々に伝(つた)わり、大きな価値(かち)と役割を果(は)たす。電話も同じだと思う。電話という機械を通(とお)すことによって、人は遠くに離(はな)れた人と話すことができるし、その電話という機械を通して、さまざまなことを伝えることができる。

それと同じように、人間の中には、また自分の中には、『仏(ほとけ)の生命』という素晴らしい生命がある。強くて、あったかくて、なにものにも負けない、歓喜(かんき)した、すべてを打開(だかい)し開いていけるような素晴らしい生命。

それが『仏(ほとけ)の生命』だと思うけれど、いくら 『仏(ほとけ)の生命』が素晴らしいと言っても、わからない。理解(りかい)できない。それは、見えない電波と同じで、わからないし、そのままでは役に立たない。

けれど、『ご本尊(ほんぞん)」という機械を通すことによって、その「仏(ほとけ)の生命」が見えてくる。自分の中にある仏の生命が見えるものになり、現実に自分の中から湧(わ)き上がり、自分の生命を変革(へんかく)していく。

テレビや電話という機械によって、電波が見えるもの、自分に伝わるものに変わるように、ご本尊という機械を通すことによって、強くてあったかい、なにものにも負けない最強の仏(ほとけ)の生命が、自分の中にあることが、わかってくる。そして、その自分の中に存在する仏(ほとけ)の生命の力(ちから)と輝(かがや)きによって、さまざなな悩みや問題を、解決できるようになっていき、夢や希望も、かなえていけるように なってゆく。

だから、創価学会の『ご本尊(ほんぞん)』が必要になってくる。

そして、テレビや電話を使うために、電源を入れ、チャンネルを合わせたり、番号を入力するように、その『ご本尊』という機械を動かす行為(こうい)が、
『ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえる』
ということなんです。

ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえることによって、今まで見えなかった、役に立てることができなかった、自分の中の仏(ほとけ)の生命が、自分の中から湧(わ)き上がってくる。そしてその湧き上がってきた仏(ほとけ)の生命は、自分自身を蘇生(そせい)させ、輝かせ、生命力を高めていく。そしてその最強の生命の力(ちから)は、どんな悩みであっても解決していく力となり、夢や希望を、かなえていく大きなエネルギーになっていく。

それが、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえるということなんです。

機械によって、見えるようになった電波は、人から人へと伝わり、大きな「うねり」となっていくように、ご本尊に南無妙法蓮華経をとなえていくことによって自分の生命が輝き変革されていったならば、その生命の輝きは、自分の周(まわ)りの人々、職場や社会、やがて世界に広がっていき、世界を幸せへ、 平和へと変えていくことに、つながっていく。

また、自分が、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、自分が輝いていったならば、その輝きに引きつけられ、周りの人々が、自分を幸せにする手助けをしてくれるような存在(そんざい)に、変わっていく。

ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえていくことの力(ちから)と影響力(えいきょうりょく)と可能性は、計(はか)り知れないんです。これ以上、 価値があり、素晴らしい行為はないと断言(だんげん)しても、間違(まちが)えではありません。

そのものすごい影響力と幸せになる力(ちから)、エネルギー、可能性が、創価学会が信じ、祈っている『ご本尊』には、あるんです。

自分の中にある無限の可能性、力(ちから)、本当の人間性、幸せに向かう、あらゆるエネルギー。

それは、あるのはわかるけれど、引き出すことができない。使えない・・。

そして、自分の中の無限の可能性、力、本当の人間性、幸せに向かう、あらゆるエネルギーを、開き、使うために、創価学会の『ご本尊(ほんぞん)』が必要であり、そのご本尊の力を、自分の中から開くために、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰が、必要になってくるんです・・・!

悩んでもいいじゃん167

  • 2010.10.19 Tuesday
  • 21:51
英語で、「invoke」という言葉がある。
「invoke」は、発動する、行使(こうし)する、とか、祈願する、祈る、という意味がある。

そのほか、「invoke」には、「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」などの意味もあり、いわば、「invoke」は、ロールプレイングゲームなどて、魔法獣を召喚(しょうかん)するといったところだろうか・・。

「invoke」という言葉は、キリスト教から来ていると思うが、これは、なかなか、おもしろいと思った。

最初に言ったように、「invoke」には、祈る、祈願する、という意味がある。ただし、このキリスト教から来ている「invoke」という言葉の「祈る」「祈願する」は、「invoke」の他の意味でもある、「呼び出す」「召喚(しょうかん)する」という意味からもわかるように、自分の外にあるものを呼び出す。
自分の外にあるものを、もらい受けるという意味合いになってくると思う。自分の中にはないものを、神様などから、ほどこしてもらうというところだろうか・・・。

だから、キリスト教の「祈る」「祈願する」というのは、自分には、幸せになる力(ちから)がないから、自分とは、かけ離(はな)れた存在である神様に、ひたすら、おすがりして、ほどこしてもらう・・といった意味合いが強くなってくる。

こういう自分には幸せになる力がないから、自分の外から、幸せになるための力(ちから)をもらう。環境や人や権力など、自分の外にあるものによって幸せになろうという生き方のことを、『外道(げどう)』と言います。

だから、環境がこうだから、幸せになれない。あの人がこうだから、幸せになれないなど、幸せになれない理由を、自分の外に並(なら)べ上げたりする生き方は、『外道(げどう)』の生き方だと、言えます。

さっきも言ったように、キリスト教は、神という自分とは、かけ離れた存在に、幸せを祈ります。自分には幸せになる力(ちから)がないから、神におすがりすると、いうことです。だから、キリスト教は、『外道(げどう)』の宗教だと言えます。

ところが、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、違う。

創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)では、自分自身が仏(ほとけ)なんだ!と説(と)く。『あなたの中に、素晴らしくて最高の仏(ほとけ)の生命が、あるんだよ!』と説く。『だから、自分の中から、素晴らしくて偉大な仏(ほとけ)の生命を引き出して、幸せになっていくんだよ!』と説く。

こういう生き方を『内道(ないどう)』と言います。

だから、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法(ぶっぽう)は、『内道(ないどう)』の宗教だと言えます。

ここに、創価学会の南無妙法蓮華経の仏法と、その他の宗教との決定的な違いがあります。

神様や仏様など、自分とはかけ離れた存在に、おすがりする、おすがり信仰・・。ここには、はっきり言って、希望はありません。神や仏などを、あがめれば、あがめるほど、人間との距離がどんどん、離れていく。そして、人間は、どんどん卑小(ひしょう)になり、みじめな存在になっていく。そして、精神的には、神や仏など、自分があがめるものの奴隷(どれい)のような存在になってしまいます。

冷静(れいせい)に考えて、このような状態で、幸せになれるとは、思えません。
それが、日本にはびこる葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光宗教、神社信仰だと言うことも、できます。また、はっきり言えば、それらの葬式仏教や観光宗教、神社信仰は、間違った宗教であり、間違っているがゆえに、どんなに祈ったとしても、逆に不幸になってしまいます。それは、さまざまな形で、不幸という結果が出てきてしまうということです。


「invoke」という言葉における、「祈る」「祈願する」という意味は、自分にないものを、外から呼び出す。自分ではなく、棚(たな)からぼた餅(もち)のように、環境や人、外部の何かを呼び出して、幸せになろうという意味合いが強いと思います。

それに対して、創価学会における、『祈る』という行為(こうい)は、違う!!!

創価学会における『祈る』という行為は、自分の中から、幸せになる力(ちから)を呼(よ)び起こすんです!!

自分の中にある、必ず幸せになっていける仏(ほとけ)の生命を、呼び起こし、自分の中から、強い強い生命力を、湧(わ)き上がらせて、幸せになっていくんです。

神様や仏さまに、おすがりするのではなく、本来、自分の中にある無限の力(ちから)を、呼び起こしていく!

これが、創価学会での、『祈る』という行為なんです・・・!

そして、その結果として、自分の生命が輝(かがや)き、蘇生(そせい)してゆく。
そして、蘇生(そせい)し輝いた自分の生命が、まわりの環境や世界を照(て)らし、環境や人、世界を変えていくんです。

それが、創価学会の人たちの『祈り』なんです。

その自分の中から、仏(ほとけ)の生命という無限の可能性と力(ちから)を、湧(わ)き上がらせ、自分の中から、悩みや問題を解決し、自分の中から幸せを勝ち取っていくのが、創価学会の、南無妙法蓮華経を、となえる仏法(ぶっぽう)の信仰なんです・・!!!

悩んでもいいじゃん114

  • 2010.02.26 Friday
  • 15:58
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、
『多忙(たぼう)の時こそ、祈りから出発し、空転(くうてん)をなくせ!』
と、言っています。

よく、空回(からまわ)りするとか、気持ちだけが、先行(せんこう)して、うまくいかない。思うようにならない・・ということが、人生の中には、あるかもしれない。

その空転(くうてん)をなくすために、池田先生は、『祈りから出発しなさい!』と言っています。

どうして、祈りから出発すると、空転がなくなるのだろうか?

一般的な考え方の人は、祈るということが、人生の空転をなくすことに関係するなんて、とても思えない。確かに世間一般的に広められている葬式仏教(そうしきぶっきょう)や観光仏教、神社信仰なので、どんなに祈ってみたところで、空転がなくなることは、ありません。

それらの葬式仏教や観光仏教、神社信仰は、実際、デタラメな間違った宗教なので、逆に祈れば祈るほど、どんどく、人生が空転していきます。すなわち、どんどん、不幸になっていきます。

これが、世間一般的な宗教ですから、祈りと、人生を空転させないことが、関係しないと考えるのは、当たり前です。

ところが、創価学会の南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰は、違うんです!!

創価学会の南無妙法蓮華経の仏法は、本当に『祈る』ことによって、人生の空転をなくすんです!!

南無妙法蓮華経というのは、計(はか)り知れないほど、スゴイんです。

南無妙法蓮華経というのは、宇宙を、生命を、変革しゆくリズムそのものなんです。
いわば、南無妙法蓮華経は、宇宙を動かしている根源のエネルギーのようなものなんです。

宇宙を、幸福へ、勝利へと、動かして行く根源のエネルギーであり、リズムであり、力(ちから)が、南無妙法蓮華経なんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえて祈る時、自分の生命が宇宙のリズムと完全に合致(がっち)するんです。幸せになるための、勝利するためのギアが、完全に噛(か)み合い、幸せに向かって、真っすぐに、スムーズに、進んで行けるんです。

しかも、南無妙法蓮華経は、生命を、宇宙を、幸せに変革しゆく強力なエネルギーなので、南無妙法蓮華経を、となえていくことによって、自分の人生を、幸せに向かって、強力に変革していってくれるんです!

だから、人生の根本において、『南無妙法蓮華経を、となえる』ことほど、スゴイことは、ないんです。南無妙法蓮華経を、となえることほど、自分と自分の人生を、幸せに引っ張(ぱ)っていってくれるものは、ないんです。

自分にとっても、人生にとっても、南無妙法蓮華経は、最強無敵の武器でありエネルギーなんです。

だから、南無妙法蓮華経を、となえると、人生が空転しない。最高にスムーズに真っすぐに、夢や希望に向かって進んでいける。

それが、創価学会が実践している、空転をなくし、夢や希望、幸せと勝利に向かって、最高の道を進んでいける、南無妙法蓮華経を、となえる仏法の信仰なんです。

悩んでもいいじゃん65

  • 2009.09.22 Tuesday
  • 17:56
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、『祈りに勝(まさ)る力(ちから)はない。祈りは、一切を変えていく原動力である。勝利への強き祈りの一念(いちねん)から、大確信も、緻密(ちみつ)な計画も、勇気ある行動も生まれるのだ。』

と言っています。

「祈り」というと、一般的には、「おまけ」みたいにしか考えられていない。「まあ、気晴らしにちょっと、祈ってみるか・・」とか、なにかに挑戦している時、「たんなる願掛け(がんかけ)に、祈っておこう」みたいに、祈り自体に期待しているのではなく、宝くじみたいなオマケである遊び感覚で、祈りというものを、考えている人が、ほとんどだと思う。

実際、そんな祈りは、くだらないし、なんの役にも立たない。かえって、祈る対象が何であるかも考えないで、間違ったものに祈っているので、害になり、自分の人生に不幸をもたらす原因にしかなりません。

このへんが、人は、わからないのだけれど、間違ったものに祈るということは、間違った結果を生むということなんです。だから、不幸になる原因にしかならない。たとえば、世間一般に広められている葬式仏教や観光仏教などは、あきらかに間違った宗教で、そんなものに祈ったところで、不幸を招(まね)くだけです。

ところが、創価学会の人たちの祈りは、違う!!!それは、正しき対象に正しき祈りを、しているということです。それは、正しい結果、すなわち『幸せ』を、もたらします。

だから、正しき仏法である、創価学会が実践している南無妙法蓮華経の仏法には、人を幸せにしていく大きな力があるということです。具体的に言うと、『ご本尊(ほんぞん)に、無妙法蓮華経を、となえて祈る』という行動には、あらゆるものを動かす、無限の大きな力がある!ということです。

だから、世間一般的な祈りに対する考え方とは、まったく違って、創価学会の人たちの祈りは、池田先生が言うように、『一切を変えていく原動力となる!』ということです。

南無妙法蓮華経の力は、無限大なので、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえて祈る時、その勝利への強き祈りの一念(いちねん)から、『大確信』が生まれ、そこから『緻密(ちみつ)な計画』が、わきあがり、その結果、『勇気ある行動』として現実の人生を切り開くことになっていきます。

だから、創価学会が実践している、『南無妙法蓮華経を、となえて祈る』ということは、一切の幸せを生み出す原点となり、またそれは、一切の幸せを生み出す最高の行動となるんです。

それほど、重要で大切なのが、創価学会が実践している、南無妙法蓮華経をとなえる『祈り』なんです!!。

悩んでもいいじゃん60

  • 2009.09.09 Wednesday
  • 18:47
人は、だれでも自分の夢や目標、幸せに向かって生きている。そのために目的にかなう行動をして、目的をかなえるためにさまざまな努力をして生きている。

それは、あたりまえのことであり、当然のことであり、だれもが当たり前のようにやっていることなので、だれでもわかるし、それを否定する人は、いないと思う。

けれど、自分の目的や幸せ、自分の人生に、宗教が、かかわっているか?というと宗教に関しては、ほとんどの人が無関心であり、興味(きょうみ)を示(しめ)さない。

宗教は、自分の人生や幸せには、関係ないもので、かかわるべきものではなく、そんなものに時間を使うべきではないと、考えている人が、ほとんどだと思う。

ところが、創価学会の人たちは、違う。創価学会の人たちには、『祈りとして、かなわざるなし!』と言われる『ご本尊』がある!!ご本尊に、自分の目的や幸せを、『祈る』ということから始め、人生に挑戦している。

実は、この差は、あまりにも大きい!!!『祈りとして、かなわざるなし!』と言われる『ご本尊』から人生に挑戦していくことによって、最初から「必ず勝利する!」という強い強い確信のもとで、夢や目的に向かって行動している!

なにごとも、「必ず、勝つ!」という心、一念(いちねん)が強いほうが勝利すると言われている。また、実際、そうだと思う。しかも、創価学会が祈り信じているご本尊には、それだけのスゴイ力(ちから)と可能性が現実にあり、また、それだけの力があるから、創価学会は世界192カ国に広がってきている。

そのスゴイご本尊に、南無妙法蓮華経をとなえて祈ることによって、あらゆるものが、自分の夢や目的をかなえる方向に動き出す。
祈りによって、世界のあらゆるものが、自分をサポートしてくれる強力なサポーターのような役割を果(は)たしてくれるようになり、すべてのものが、祈りをかなうようにバックアップする存在になってくる。

『ご本尊』に祈る(南無妙法蓮華経を、となえる)ということは、実は、自分の幸せにとって、あらゆるものを動かす、スゴイ行動なんです。

だから、人生を祈りから出発するか、そうでないかは、天国と地獄くらいの大きな差が、でてきてしまう。(と言っても、間違ったものに祈ってはいけない!間違ったものに祈ると、どんなに信念があっても、間違ったものに祈っているので、祈りが、かなうどころか、どんどん不幸になっていくからです。)

だから、正しい対象に、正しい祈りを、ささげていった時、祈りは、人生を大きく動かしていく力(ちから)となり、人々を幸福と勝利に導(みちび)く。

その勝利と幸せを導(みちび)く、スゴイ力(ちから)が、創価学会が祈っている『祈りとして、かなわざるなし!』の『ご本尊』であり、南無妙法蓮華経をとなえる仏法の信仰なんです。

悩んでもいいじゃん24

  • 2009.05.12 Tuesday
  • 12:07
『祈れば、かなう』っていうと、そんなバカなことあるかって思うけど、『祈れば、かなう』っていうのは、当たり前なことなんだそうです。

なぜかというと、祈るということは、自分が願いをかなえたいことに、心と生命を集中させるということです。願いをかなえたいことに心と生命を集中させた結果 、自分の生命は、願いをかなえる方へ、かなえる方へと、動き出す。その生命の当然の法則の結果、願いが、かなっていく!ということです。

ただし 、問題があります。なんでもいいから、祈れば、かなうっていう訳ではありません。間違ったものに祈れば、祈りが、かなうどころか、間違ったものに祈っているので、祈れば祈るほど、逆に、どんどん、不幸になってしまうんです。ここが宗教の恐(こわ)いところです。だから、祈りを、かなえるためには、正しい対象に、正しい祈り方を、しなければいけません。

実は、そういうことを、徹底的(てっていてき)に究明(きゅうめい)し、本当に祈りのかなう仏法の信仰を世界に伝えたのが日蓮大聖人であり、それが南無妙法蓮華経の仏法なんです。そして、その日蓮大聖人の真実の仏法を、一点の誤(あやま)りもなく正しく広めているのが、創価学会なんです。だから、祈りを、かなえるためには、創価学会の、南無妙法蓮華経の仏法を実践して、創価学会の、ご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえて祈るということが、必要不可欠になっていきます。

結論からいうと、『祈れば、かなう』んですが、そのためには、正しき対象に、正しき祈りを、実行しなければなりません。それが、創価学会が、実践している南無妙法蓮華経の仏法であり、祈りを、かなえるためには、創価学会の中で、創価学会のご本尊に、南無妙法蓮華経を、となえて祈ることが、絶対条件になってきます。

悩んでもいいじゃん20

  • 2009.04.16 Thursday
  • 23:43
日蓮大聖人が『法華経(ほけきょう)の行者(ぎょうじゃ)の祈りの、かなはぬ事はあるべからず』と言っています。「祈り」というと淡(あわ)い夢や願望のように感じるかもしれませんが、そうではない!そうです。

「祈り」とは、「必ず、こうしてみせる!」「絶対に勝つ!」という誓願(せいがん)なんだそうです。そういう祈りが、かなわないことは、ない!!ということです。

ここで重要なのが、日蓮大聖人が、「法華経の行者の祈りの、かなはぬ事はあるべからず」と言っているように、『法華経(ほけきょう)の行者の祈り』ということです。法華経の行者というのは、人間を完全に幸せにしきることのできる生命哲学(てつがく)である、仏法の神髄(しんずい)である、法華経を行(ぎょう)ずる人のことです。仏法の神髄である法華経とは、現代では南無妙法蓮華経のことをいい、『南無妙法蓮華経』が、仏法の神髄の『法華経』なんです。だから法華経の行者とは、『南無妙法蓮華経を、となえる人』のことです。けれど、ただ南無妙法蓮華経を、となえていれば良いというのではなく、南無妙法蓮華経の生命哲学を、正しく実践(じっせん)し、正しく広げていかなくてはなりません。だから、南無妙法蓮華経の生命哲学を、正しく実践し、広めている人が、法華経の行者ということです。そして、結論から言うと、南無妙法蓮華経の生命哲学を、正しく実践し、広めているのは、「創価学会」しかありません!!

だから、「法華経の行者」とは、現代では、創価学会の中で、真面目に南無妙法蓮華経を、となえる信仰を実践し、仏法の実践活動である創価学会の活動を、真面目にやっている人のことを、指します。

だから、最初のテーマに戻ると、『法華経の行者の祈りの、かなはぬ事はあるべからず』とは、創価学会の中で、真剣に南無妙法蓮華経の仏法を実践し、仏法の実践活動である創価学会の活動をしている人の祈りの、かなわない事は、ない!!ということです。

それほど、スゴイのが、創価学会の人たちが、実践している南無妙法蓮華経の仏法なんです。
また、南無妙法蓮華経の生命哲学を、正しく実践し、広めているのは、「創価学会」だけなので、南無妙法蓮華経の仏法を、『創価学会の中で、創価学会に入って、実践する』ということが、『祈りを、かなえる』重要なポイントになります!!

悩んでもいいじゃん11

  • 2009.03.13 Friday
  • 12:43
池田先生(創価学会インターナショナル会長)が、ご本尊に祈るときのことについて、(ご本尊とは、創価学会が祈る対象としている本尊[ほんぞん]で、人間の生命を文字で表現しきった曼陀羅[まんだら]で、仏[ほとけ]の生命の象徴[しょうちょう]であり、また、その仏の生命が自分自身の中にあることを表した、自分自身の生命の象徴でもあります)・・・そのご本尊に祈るときは、『何でもいい!お金持ちになりたいでも、なんでも、祈りたいことを祈りなさい!!」と言っていました。ちなみに、ご本尊に祈るとは、ご本尊に南無妙法蓮華経を、となえながら祈るということです。

ご本尊に祈るときに形式なんかない。思う通り、ありのままの自分で祈ればいい。それは、創価学会が祈っているご本尊が、絶対に人を選ばす、あらゆる人に対応し、あらゆる人の祈りを受け止め、対応していけるスゴい!ご本尊であることを、表している。

また、真剣にご本尊に南無妙法蓮華経をとなえぬき、仏法の実践活動である創価学会の活動をやっていけば、その人の思い、祈りを、その人にとって最高の形で、実現することができるスゴい、ご本尊であり、スゴい南無妙法蓮華経の仏法であり、スゴい創価学会であることを、表わしている。

また、人生の師匠である池田先生が、創価学会の会員のみんなのことを思い、命がけで行動し命がけで祈っているから、創価学会は守られ、創価学会の人たちの願いや祈りが、かなっていくと、言うこともできます。

PR

calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>

selected entries

categories

archives

recent comment

recommend

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM